会社に入らないと、職業を名乗れないのか。フリーランスでも、一般的な職業という枠に収まらないといけないのか。そんなことはないだろう。ただ、自分の職業を定義するのさ。
自分が「仕事」と呼ばれるものの中で何にしたいのか、ずっと悩んでいる。少し前までは、システム・エンジニアだった。別にコンピュータが好きな訳ではない。高校生の時に触ろうと思ったのは、可能性を感じていて面白そうだから。IT業界は世界でいえば10兆円規模の産業で、確かに今なお可能性は持っている。しかし、仕事として見た時、そこまで面白くなくなって来てしまった。設計書を作ったり、テストをしたりと細かい反復作業を求められるのはもちろん好きではないけども、それ以上に産業の硬直的な体質が嫌になってしまった。下請け、孫請けなんてあったら、ハッピーになれる人なんて限られてしまうじゃないか。EvernoteやFacebookみたいなサービスが簡単に作れるわけではない。それはそうだけど、右向けば残業だらけで、左向けばお客さんにペコペコして、それでいいのかな。仕事ってそういうので、いいのかな。そんな「職業」の型に嵌らなければいけないのだろうか。
誰だって絶望のままにその仕事をスタートさせた訳ではないだろう。でも、5年経って、10年経って、その時も最初のままでいる可能性もなくはない。確かに頑張ってきた。人よりもやってきた。それは事実だ。しかし、それが本当に望んでいた事なのだろうか。その職業をしたかったのか?それとも、その職業ならば叶えられると思った何かがあったのか?もはや、どちらだったかも忘れてしまったのだろうか。その職業が得意だとしても、叶うかどうかは別問題だ。だって、同じ様にその職業を得意だと思っている人はごまんといるのだから。その人達より抜きん出て、出し抜いて、蹴落として、そんな身も心もボロボロになって叶わなかったら悲しいじゃないか。果たして選んだのは、その職業に身を捧げる事か自分の叶えたい事に捧げる事なのか。もし後者なら少し遠回りしても、叶えるのが容易な方法を選べばいいじゃないか。叶わなかった時に悲しむのが、自分だけじゃない事を知っているのなら。
私もまた叶えたい事があったから、それに見合う職業を探していたけれども見つかりはしなかった。それは、ソクラテスを知り、ドラッカーを知り、その中で思い描いたモヤモヤとした物を、ずっと形にしたいと願ってきたから。それが一時は管理職やら社長やらなら出来ると考えていた。でも、がんじがらめの中で出来ない事を思い知った。その経験は一つの糧かもしれないけれど、遠回りどころか逆の道を行っている様なものだった。目指す道は獣道どころか、誰も通った事のない道かもしれなくても、自分から外れた道を歩くより百万倍楽しい。逆の道では安全なのかもしれないけれども、誰かが勝手に自分の身体を動かしている様で生きた心地などしやしない。もちろん、道があるって事はありがたくて感謝すべきだ。でも、それはどこまでも下っていく道ではなくて、空に飛び立つための滑走路であって欲しかった。誰しもいつかは自分の先の未来のために、道を用意してあげなくちゃいけない。しかし、その時もまだ誰かの道を歩いたままでは、用意する立場には立てないだろう。だから、いつだって子は親の屍を超えていかなくちゃいけない。親は子が超える事を防いじゃいけない。そういう宿命なんだよ。
ソクラテスの産婆術
兎にも角にも、どうして職業を作りたくなったのか、どんな職業をするのか、話を遡ってみよう。哲学者ソクラテスを知っている人は多くいるだろうが、 産婆術 なんてマニアックな事を知っている人はそうはいないだろう。ざっくり言うと、ある人が言った事に対して喧嘩をふっかけまくって、最終的には「お前さん、適当な事言ったろ?」と追い詰める様な、一見するとネガティブな討論の形式だ。もちろん、子供が親に初めて見たものが何なのかを問いただす様な、可愛げのある方法も取れたりはするけれども。
なぜ、これを持ち出すのか。自分がギリシャ好きである事は、自他ともに認める事であるが、それの一つの帰結なのである。いや、ソクラテスは「無知の知」を説いて、知らないという事を知っていた。が、自分は知らない事を知りたいという欲求なのである。人と会って、その人が見た目や会話から判断される以外の事を有していないのなら、自分にとってその人は実に「つまらない」人なのである。人と限定してしまうのは、いささかよろしくないかもしれない。もっと言えば、起こる事象全てに対しての話なのである。似た様な、あくまでも似た様な人をあげるとするなら、Chikirinさんの様にカオスがとっても大好きなのだ。計算尽くしの化学反応が起きるよりも、間違って爆発するくらいの融合でないと全くやる気が起きないのだ。
だから、人に無茶ぶりしてみる。本人は出来ないと思っているかもしれない。でも、実はやった事がないだけで、やれるかもしれない。ブレ幅は調整しておく。あまりにも突拍子もない事には誰も対応出来ない。成功すれば拍手喝采だし、失敗したらみんな大爆笑だ。でも、失敗しても別に嘲笑う訳でなし、そもそも責任なんぞがある訳でない。なんたって「無茶ぶり」なんだから、どちらかと言えば出来ない方が普通なんだし。そんな「無茶ぶり」というちょっと一線を超えてみるための勇気を与えた事で、もしその人が上手いことそれを活かして稼いじゃったりしたらどうだろうか?
人見知りですと言う人がいる。同じ様に自分がうつ病に限りなく近いと思ったことは幾度となくある。診断テストに嘘を付かなくても、極めてうつ病であるという結果をもたらす事になる。過去に何度か試した事はあった。そして、人に会うのが怖いと思う。今でも、時折思ったりする。一般的な原因というのはあるけれども、やはりその場になってみると言い知れぬ恐怖が胸を締め付けたりする。それでも、知らない人に会ってみたいと実は思ったりもする。何が起こるかわからない、が、それ故に会ってみようと無謀にも思ってしまう。そんなせめぎ合いを今日もまた続けている。会って後悔するのはたいてい次のどちらかだ。自分か、ないしは相手がおもろくなかったなと思った時だ。
ドラッカーのマネジメント
頑なに主張するけれども、世の中に蔓延る「〜管理」のほとんどはドラッカーのマネジメントと違うと思っている。相手のあるがまましか見えていないのなら、それは人財ではなくて、単なる資産の一部としか扱えていないと思う。この自分の頭はあまり論理的に捉えるのは苦手なので、もしドラッカーの主張と違う所があればそう指摘してもいい。だけど、自分の主張は変わらない。マネージャーという職種は管理職と違って、何でも把握できる職種だと思っている。もし一分野でしかその能力を発揮出来ないとしたら、それはマネージャーという冠を抱くにはまだ早いということだ。
人と接し、人の眠る才を見つけ、人の才を開花させるのがマネージャーの使命ならば、その原理原則を貫く限りはどの分野だろうとも変わりはないはずだ。知るべき知識は全て接する相手が知っている。知らないとしたら、「知っていない事」を教えてあげるだけなのだ。もしくは、知っていなかった事を一緒に学べばいいだけだ。それが、教える人の在り方ではないだろうか。共に成長する事は恥ずべき事なんだろうか。スケジュール管理もそうだろう。それは上から降って来たものに従うものなのだろうか。それを強引に当てはめた所で、相手の能力の遥か上の事などに対応出来はしない。ただ、作業に必要な量を相手がこなせる速度で消化してもらうしかないだろう。ムリなら、頑張らせる?何をどうやって?その末路が残業だらけの生活なんじゃないかな。そういうスケジュールしか組めないなら、まずもって自分すら知らないという訳だ。もちろん私自身も私の全てを知っている訳ではない。とりあえずシステム・エンジニアでやるのは明らかなキャパオーバーだと痛烈に知った。
よって、何を知るべきかなんて、マネジメント能力を向上させる以外に必要なものなど全くないと思っている。それは大学の推薦での面接でも、そう言わしてもらった。
面接官「これから必要な資格は何かありますか?」
高校生のドラ「特にないと思います」
面接官「本当にそう思うんですか?」
ドラ「はい…」(あの頃は内気でしたよw)
いや、世の中ブラックジャックだけなのはちと頂けないけれども、少なくともマネージャーになりたいという想いの中で必要な資格なんてなかった。確かにPMBOKとかは勉強してみたいと思ったけれども。業界もどこでもよかった。というより、どこの業界でも通用するゼネラルなマネージャーになりたかった。もし、マネージャーとしての原理がきちんとその身に染み込んでいるのなら、通用しない訳がないと思っていた。通用しない時は、自説が覆されたという訳だ。とりあえず、人が決めた「管理職」という枠の中に収まりたくはなかった。自分の理想とする「マネージャー」になりたかった。
起業するのだって、そうだろう。一部の業種を除いては、必要な資格などいらないはずだ。ましてや、風営法とかそんなのでも無ければ、人の許可を取るものでもない。アメリカのプロゴルファーの様に明日からでも「起業しました」と言い放てばいい。お客の許可もいらない。ただあなたの商材が買うに値するかを判断するだけだ。スポンサーになってもらうにしても同じだ。あなたに投資する価値がある事を認めてもらえばいい。今あなたが何かの仕事をしているかなんて関係ない。副業をしてはいけないという法律も、公務員以外にはない。そんなのただのまやかしだ。問題は、あなたがなんかしらの商売をする事で、稼げる事ができるかだけだろう。あなたが売ったものに間違いはないと信用してもらえれば、稼げない事はないだろう。
ジョハリの窓
心理学者ジョセフ・ルフトとハリー・インガムは、ある人を捉える際にその人自身と他の人で認識される領域が異なっていて、それをそれぞれにおける知っていると知らないという軸で分割した4つの領域を「窓」に例えた。それが、ジョハリの窓というもの。その人が知らなくて相手は知っている「盲点」の窓を狭くするのが、コーチングという技法かもしれない。「公開」の窓における問題を解決するのが、コンサルタントかもしれない。「秘密」の窓を開けるのが、フロイトの夢判断かもしれない。知っている事から演繹するにしても、知らないと仮定して帰納するにしても、何となく見えている結果は少なからずあるだろう。
これらのいずれにしても、見えている結果程つまらなく感じる事はない。もちろん、何も起こらない事は、つまらないどころかやった意味すらなくなってしまう。もし「未知」の窓を開けようとしても、それは出来るのだろうか。他の窓が全て認識されていて、そこから仮説を立てて求めていけば出来るのだろうか。短い人生の中でそんな回りくどい事をしていてもいいのだろうか。世の中のどれだけの人が自分の本当の才能を見つけているのだろうか。虱潰しに「強み」と思われるものを当たって行った先には必ずあるのだろうか。今している仕事が出来ているからといってそれが本当の才能だろうか。もしかすると、それは他よりも慣れただけの話かもしれない。ひょっとすると、いい所までは行っているのかもしれない。安定してきたからここでいいやと、気持ちが先に腰を据えたのかもしれない。
そもそも、「出来る」事と「出来ない」事の認識が間違っていないか。「出来る」というのは、知って、理解して、やってみての先にある事なんじゃないか?やる前から、理解する前から、知る前から出来ない事なんてのは、盲目の人に見ろと言う類くらいだろ。乙武さんであるまいし、五体満足で出来ない事なんてそうそうないだろう。それが上手く出来るか、そうでないかは別の問題としてだけども。そんな何かをやってみた事で死に至るような事はあるのだろうか。残念ながらイカロスは父親の言いつけを守らずに死んでしまったが、フライト兄弟は死なずに飛行機を発明した。しかし、どちらにしても空は飛べている。そんな偉人になりたいとは思わない?では、何になりたいのだろうか?もしくは何になりたくないでもいい。それとも何にもならないという選択はあるのだろうか。
職業という呪縛
職業、もしくは職種でもいい。おんなじ様な集まりで括られて、例えどんな仕事という答えが違ったとしても、そこに分類されてしまう。先駆者、ないしは第一人者がいて、その後には同業者や後継者がいたりする。そうでなくてはいけないのだろうか。色んな職業を転々とする人もいる。ひょっとするとその中には一貫した方針を貫いているかもしれない。でも、転々としなくて、一辺にやればいいではないか。それこそ、@nokibaさんの様に心理ジャーナリストという複合的な職業でもなんら問題はない訳だ。普通に考えて、職業なんて後付けでいいんだ。でも、逆転してしまっている人もいる。何時の間にかそのラベルを剥がせなくなって、それに囚われている人もいる。こういう仕事をしたいから、こういう職業についた、というはずなのに。
自分もこれから何らかの仕事にはつく。仕事が「銭を稼ぐ」という単純な定義においては、仕事に付かないという選択肢はない。そうしないと餓死してしまうという面白くない結果に至ってしまう。出来るんだったらたんまりためといて、後はゆっくりするという手もなくはない。その仕事がどんな「職業」だとしても、それは自分が決めた「職業」の一つの名前でしかないと思う。これをある「仕事」を変わらずしていて、単に「職業」が変わっただけと捉える仕方もあるかもしれない。しかし、それではこういう「仕事」をしたいので、この「職業」をするという言い方になる。そんな型にはまる様にはなりたくない。こういう「仕事」をしているので、この「職業」で名乗るとしたい。それは、エバンジェリストにしても、ファシリテーターにしても、同じかもしれない。こんなの未だによく理解できていない。「ニンジャ」に至れば、まず理解するのが無理だろう。つまり、その「仕事」に相応しい適切な「職業」が無ければ、いつだって作ってしまえばいいのだ。
であれば、自分は、こういう「仕事」をしていたら、なんか同じ様な人がたくさん必要になってきて、だったらそういう集まりを便宜上この「職業」の名前で呼びましょう、なんて事はしたくない。といっても、まだ丁度いい名前なんてありはしないけども。と言うよりも、上であげた3つの事を一つに括って、なんらかの「仕事」と呼ぶのは何かしっくりこない。相手の意見にケチをつけ、相手の強みを伸ばし、相手の未知を発掘する?これをひとまとめに「相手の知らない事を知らせる」仕事とするか?それぞれが別のアプローチをしている訳ではなく、段階的に移行させていく事を括って「仕事」と言えるのか?いや、「仕事」と言った時にはもっと具体的であるべきなんじゃないかな。だから、いっその事、こういう「職業」ですと言った方が早いと思うのだよ。
三眼の見据える先に
では、どんな「職業」でありたいのか。正直なところ、まだもやっとしている。でも、こんなイメージというのはある。それは、「蛹を蝶にするのを見守る」職業と言えるかもしれないものだ。蛹である事を知らせ、蝶になれる事を知らせ、大空がある事を知らせる。なに、トボけた事言ってんだ、と思うかもしれないが、これが結構大真面目だったりする。うん、タチが悪い人間ですな。なにせ、極め付けは何かが起こるのは保証するが何が起こるかは保証しない、というよりわからないんですから。こんな気が狂っていると思われる人間に仕事を頼む人はいないかもしれないが、そしたら「知らない事」を知らせに行くまでですから。「出来ないですから〜」と寝ぼけた事言っていたら、起こしに行きますから。「この先どうなるか分からないですから〜」なんてビビっていたら、後ろからそっと背中を押しに行きますから。
ただし、仕事は成果を出すべきだと、ドラッカーは言うし、自分もそう思うが、この「職業」において何が成果になるかわかってはいない。こんな曖昧でいい訳もなく、蝶になった事を成果にするのもいささか難しい。それで自分だけが満足してもしょうがないし、相手がそれを望んでいるかも推察しただけかもしれない。ただ、洗脳するつもりもないし、強引にやらせるつもりもない。でも、どうしようかなと悩んでいるのなら、それを助けたいと思う。ただ目の前の、たまたま出会った人の困りごとをなんとか出来れば、これ幸いだ。そもそも出会った事自体が何かの縁だと思う。遠くの何処かで困っている人をそうそう助けられるとは思わない。それこそ、なんでも出来るなんでも屋ではないので、きっとどうしようも無い時はあると思う。それでも、何かのきっかけにはなるのではないだろうか。
普通に考えれば得意な事を仕事にした方がいい。でも、自分が得意な事などないと思っていた。何をやっても、中くらいの結果しか残せてこなかった。そんな周りに溶け込んでいくらでも代わりがいる様な存在よりも、尖ってていいから自分だけの何かが欲しかった。今は強いて言うなら、一つ挙げられる。そいつは「見立て」ってやつだ。ある物を見つつも、別の物を見てとるということだ。頭がぶっ飛んだ自分には、お似合いって寸法だ。「見極め」なんておこがましくて使えやしない。人を見て、今ある在り方とは、違う在り方を「見立て」るという事だ。もちろん、それはよりよい在り方になって欲しいと願っていて、悪い在り方になってほしくはない。もしくは、パラダイムシフトでもいいかもしれない。というと、そんなの起こせるのかと訝しむかもしれないが。この得意な事をどう活かすのか、という結論がこの「職業」に結びついている。
別にこの「職業」でそんなにも不可思議な事をやろうなんて思ってはいない。それこそ、ライフハックを教えるとか、あとはアトピーやらナルコレプシーやらで勉強した時の事を披露するとか、太らない身体を作るのってそこまで大変なのかなとか、流石に真面目になってドラッカーを語るかもしれない。自分の知識で足りなければ、何の恥じらいもなく人様の知恵を拝借しにいくだろう。ひょっとすると、「羊たちの沈黙」の様に殺人鬼の思考すらトレースしようとするかもしれない。それをおぞましいと感じるかもしれないが、そういう思考が出来ないとそういう作品は出来ないと言えるのだし。ただ知っているか知らないかで人生を変えるきっかけになるというのなら、知っておけばいいと思う。そんな荒唐無稽な粗治療だ。でも、「職業」として確立はしていないのだから、やれることは全てやってみるのみだ。
無心になって「踊レ」
もしここまで読み進めてきたら、きっと私のことをイかれているとお思いだろう。まず読み進めた人などいやしないと思うが。ま、思うがままに心中をぶちまけてみたものを誰も好き好んで読むはずはない。一歩間違えれば、いや間違えなくても、こういうのはモレスキンに書き殴っておくコトだろう。しかし、言わずにはいられないし、言っておきたいことだったからだ。
なぜなら、常日頃、自分に対しても、人に対しても、PCに対しても、ありとあらゆるものに対して、こう思わずにはいられない。もっと、「踊レ」と。手枷足枷はめたままでなく、何か考えながらでもなく、しかしながら迷惑かけるでもなく。ただ、頭の、心の、身体の向くままに、「踊レ」ばいいと思う。迸るエネルギーに従って、自在に動けばいいと思う。良いエネルギーを流せば、良い動きを伴うと思う。もちろん、そのまた逆も然りで。あ、気功とかの話を言ってるんじゃありませんよ。知識、情報、感情といった人を動かす原動力になりうるものをエネルギーと言っているので。だから、PCもまた間違った操作をすれば、間違った結果をもたらすわけで。
タスクや記憶をその身から振りほどいただけじゃ、たかがしれている。もっともっと色んなものを振りほどいていいはずだ。それは「捨てる」ってこととはまた違うことだ。責任だって背負い込む必要はない。その身に纏えばいい。その重荷に潰されるよりも、解放されて周りにいい影響を与えた方がその人の為だし、周りの人の為にもなっていく。アンパンマンみたく、その身を削ったものをもらうより、産み出したものをもらった方が心地がいい。この「職業」をすることも「踊レ」るために選んだし、もっと自分に「踊レ」と言い聞かして「ペイ・フォワード」出来ていけたらいい。
もし、名前を付けるなら
「名前のない職業」と言いつつも、やはり適切な名前は付けたくなる。こんな青魔導士みたいな職業にちょうどいい名前なんてないけれど。あえて付けるなら、「Δρακοντιστης」かもしれない。ま、意味通じないか。こういう具合だ。
Δρακον(dragonの語源) + τ(語系変化) + ιστης(ist、する人)
Δρακονってのはメインで掲げている様に、watch with piercing gaze(眼光鋭く見る)ということ。もし、無理やり英語にするなら、こうなる。
Dragon + ist = Dragonist
うん、「ドラゴニスト」か。かっこよ過ぎるな。んじゃ、やめとくかw
さてともあれ、ここまででだいたい9000字に達している。くだらないことばかりつらつらと書いてきたけれども、一つだけ言えるくだらなくないことがある。それは、これを読み切ったやつはすげえ、ってことだ。それもまた未知の窓にあったことかもしれない。あ、それと、読み切ってくれて、ありがとうございます。なにせ、話はつながっているけど、まとまってないし、読みにくいしだからね。ま、新幹線に乗っている間の暇つぶしくらいになっていたら、いいんじゃないかな。そんじゃ、終わらし方がよく分からなくなってきたけど、だいたいいいたいだけってより言いたい放題したのでここでご閉幕だ!
最後に
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